言霊神社

言霊神社の設立の挨拶文をここに紹介する。戦後、ただ一人言霊学を主体に研究をつづけた言霊学研究家、故小笠原孝次先生挨拶文。


挨   拶


 茲に此の甲斐の地を卜して言霊神社を創設する。コトタマ、布斗麻邇五十音は人類の至宝摩尼宝珠である。神の言葉、生命の掟である。五十音は五個宛の母音、半母音。八個の父韻。三十二個の子音を以て構成される生命の法則である。この法則が日本語の法則(ロゴス)である。


 キリスト教、ユダヤ教、佛教等の諸宗教および哲学乃至科学等の人類の営みは此の布斗麻邇である神の法則を明かにする為の長年に亘った努力であった。二十世紀が終ろうとするに当って人類はようやく此の簡単にして精確な生命の法則に到達するを得た。来るべき二十一世紀の文明は此の完全無類なる法則の転輪を以て経営せられる。言霊神社は此の布斗麻邇の法を斎き祀る。

一九八一年十月
甲府市里吉
言霊神社
主幹 小笠原孝次
七沢賢治
【原文はこちら】


言霊神社には、刃渡り50センチの諸刃の剣がご神体として祀られている。これは、相手(現象)を裁断すると同時に自分をも斬り捨てる剣である。50という数字には、日本語の五十音、そして両刃を合わせて言霊百神の意味を持たせてある。

布斗麻邇の法、すなわち日本語五十音の法則を後世に残すため、小笠原孝次氏は、七沢賢治に言霊神社の創設と神剣の製作を命じた。この剣は「言霊の剣」と呼ばれる。小笠原孝次78歳、七沢賢治が34歳の時である。

小笠原孝次氏は七沢賢治にこのように語ったという。
「いずれこの法は、テレビのようなものを介して一晩で世界中に伝わることになる。しかし、あなたが50歳を過ぎてからでないと、そのようなことにはならない。それまでの間、この人類の至宝を護るために、言霊神社を創設し、そこに封印する。」

こうして布斗麻邇の法は七沢賢治に相伝され、1981年10月、甲府の七沢邸内に言霊神社が設立された。そして、法の開示が七沢に託された。

小笠原と七沢の関係は、丁度、禅の師と弟子の関係と同じであった。常に一対一で対峙するこの接心修行は、幡ヶ谷の小笠原邸で7年間ほぼ毎日続いた。学びを共にする多くの者たちが出入りを重ねる中、最後に残ったのは七沢唯一人であった。

言霊神社ができた後、七沢邸には小笠原氏の寝室も用意されていた。最後は叶わなかったが、小笠原氏は、七沢邸を終の棲家と考えていたようだ。小笠原氏がそれまでに書き溜めた原稿や、所有していた書籍、印刷物はすべて七沢賢治の義弟に引き継がれた。

その後、布斗麻邇の真髄は、小笠原氏の予言通り言霊神社に眠り続けた。小笠原氏のかつての教えや著作物の一部が紹介されることはあったが、表面上の意味をなぞっただけのものに過ぎず、人類生命の根源的実在に迫ろうというものではなかった。しかし、それでよかったのである。

七沢は師から次のように厳命されていた。
「(言霊の法則が)最先端の自然科学的分析により実証されるまでは、努々これを表に出してはならない」と。

機が熟すのをただ待っていたわけではない。七沢の頭に常にあったのは、人類の行く末と布斗麻邇の科学的運用方法であった。と同時に、「言霊学」そのもののより一層の探求も忘れなかった。

それは、ある意味、自身が継承した伯家神道の修行と表裏一体の関係にあり、言霊の真理を掴むことは、同時に古神道の原理を掌握することでもあった。逆もまた然りである。言霊接心の後、伯家神道の修行に更に7年の歳月が費やされた。

それにより、七沢個人の世界において法体系の整理は一応の完成を見た。しかし、それは主観的な獲得であり、誰にでも掴めるものではない。別の言い方をすれば、いわゆる体感や頓悟の世界を含むものであって、直観的ではあるが科学的ではないのである。

こうした悟りの後に飛び込んだ世界は、ソフトウェアの開発分野であった。日米を跨ぐ政府のプロジェクトに参画し、一時は大きな富の形成もあったが、そのすべてを残らず知の統合システムの研究と開発に注ぎ込んだ。そして、日本語一音一音の整理に取り組んだ。

それは、後に日本語という特定言語の発信技術を生むこととなった。いくつかの変換プロセスを実験した後、最終的に日本語の一音一音、すなわち言霊の周波数がデジタル的に特定できることがわかったのである。これはアナログからデジタルへの大いなる飛躍であった。この大転換により、コンピュータによる解析と連動が可能となった。

こうして、ついに言霊学、伯家神道、ソフトウェアの世界が、デジタルシステムとして統合された。それはまさに、小笠原氏の預言の実現であり、インターネットを通して言霊の本質が瞬時に伝わる時代の到来ともいえる。


そして、1981年から32年の年月を経て、言霊神社の封印は解かれ、2013年10月をもって再度立ち現われることとなった。


先人から引き継いだ叡智と、この日を迎えるまでの32年の間、様々な学問的アプローチを積み重ねながら言霊の運用原理を解明するために集積した知識・情報・概念の数々が、この言霊神社にはある。


言霊に関する「こと」や「もの」が大量に詰まった言霊神社は、今後広く公開され、世界に発信されていく。そして、日本の文化の源泉たる言霊を発信する場として、また人類の進化に寄与するために機能し続ける。それはまさに、言霊学における「布斗麻邇(ふとまに)」の働きのごとく。


言霊を学ぶものは、常にこの言霊神社の原点に回帰するものであることをここに宣言する。



御神体「言霊の剣」について


御神体の「言霊の剣」は、小笠原孝次先生が七沢賢治氏に指示し作らせたもの。作刀は、吉原義人(よしわら よしんど)氏。



作刀: 吉原義人※

刃長:50.0センチ

刀の種類:両刃

  • 吉原義人・・・・昭和18年生まれ。刀鍛冶。伊勢神宮の御神刀を五振り作刀。刀匠として唯一メトロポリタン美術館、ボストン美術館にも陳列。





  • 右端が故小笠原孝次先生
    左端が七沢賢治先生
    1981年当時)

小笠原孝次氏略歴

1903年(明治36年)誕生

1924年(大正13年)-1925年(大正14年)一燈園の西田天香師に従事して托鉢奉仕を学ぶ(21-22歳)

1932年(昭和7年)元海軍大佐、矢野祐太朗氏と共に『神霊密書』(神霊正典)を編纂する(29歳)

1933年(昭和8年)-1934年(昭和9年)大本教の行者、西原敬昌氏の下で、テレパシー、鎮魂の修業を行う(30-31歳)

1936年(昭和11年)山腰明將氏主催「明生会」に加盟(33歳)
1950年(昭和25年)言霊・数霊研究家の武智時三郎氏より言霊研究のアドバイスを受けると共に同氏の研究を受け継ぐ。

1951年(昭和26年)山腰明將氏没後、理屈だけしか判っていなかったので途方に暮れる。「言霊学」を体感するために瞑想に取り組む。(48歳)

1954年(昭和29年)ある夜、こつ然と広々とした無限の世界が現前。その世界が天之御中主神の宝座である事の自証を得たと同時に 「言霊布斗麻爾の責任者として起てという命令を聞いた」 しかし「アイエオウ5母音」階層性の意義を了解するまで10年の歳月を思索を要した。信仰的、抽象的、概念的なアプローチではなく、学問的、精神科学的なアプローチによって体系化を取り組む。(51歳)

1961年(昭和36年)-1964年(昭和39年)無格神社の留守番を勤める(58歳) 毎日2時間のランニングと速歩を日課とし、和歌と俳句を作っていたが、俳句を作る事を止め『言霊百神』の執筆を始める。「日本開顕同盟」(発起人、葦津 珍彦、大辻桃源、岡本天明など)のメンバーとして活動、神道界の現状を調査する。

1963年(昭和38年)「ヘブライ研究会」を設立(5母音の体得を目的)(60歳)

1964年(昭和39年)『第三文明への通路』出版(61歳)
1964年(昭和39年)『第三文明への通路』出版。合気道創始者の植芝盛平氏より「武道即神道」(言霊布斗麻邇)の学問的研究の提携を依頼される。(61歳)

1965年(昭和40年)「ヘブライ研究会」は「第三文明会」に発展(62歳)

1967年(昭和42年)『無門関解義』出版(64歳)

1968年(昭和43年)『歎異抄講義』出版(65歳)

1969年(昭和44年)『言霊百神』出版 人類の律法、言霊布斗麻爾が『古事記』(上巻)の中に、比喩と象徴を以て詳細に記述されており、その言霊の道理の体系をアルパからオメガ(最初から最後)まで概念的、行法的に述べた。しかし、8父韻の音義について明瞭に理解できていなかった。 書籍に登場する五十音図の「宝音図」「赤珠音図(原始共産主義の体制)」は、武智時三郎氏から学んだ。(66歳)

1970年(昭和45年)『大祓祝詞講義』出版(67歳)

1975年(昭和50年)『世界維新への進発』出版(72歳)

(同年1月、七沢賢治氏は国会図書館で『言霊百神』に出会う(七沢賢治氏:28歳・大学院生)本の内容に強い衝撃を受けた七沢氏は、その場で直ぐに小笠原孝次氏に電話して面会を申し込む。それから7年間毎日のように小笠原孝次氏より一対一にて講義を受ける。)

1976年(昭和51年)8父韻と32子音と禊祓の意義を明瞭に理解してきた(73歳)

1977年(昭和52年)『言霊精義』出版 8父韻の意義と32子音の意味を発表(74歳)

1980年(昭和55年)『言霊開眼』出版(77歳)

1981年(昭和56年)七沢賢治氏と山梨県甲府市に「言霊神社」創設する。(78歳)

1982年(昭和57年)1129日、79歳にて帰幽。

Photograph © MINORU ICHIGE